2009年

ーー−12/1−ーー 出版その後

 
 著書を出版してからおよそ8ヶ月経った先日、版元(出版社)から販売報告が来た。委託配本と注文の合計から返品を引いた実売部数は、発行した1500部の三分の一ほどだった。

 この数値を大きいと見るか、小さいと見るか。

 私としては、初めて経験する事で、想像を超える領域の事であるから、何とも言いようが無い。しかし、全国各地の見知らぬ人々が、これだけ多くの人数でこの本を手にしてくれたという事実は、一つの驚きであり、また心から有難いと感じる事でもある。

 一方、版元の見方は「残念な結果」だそうである。この数値では元が取れないとのこと。そう聞くと、たいへん申し訳ない事をしたような気になる。

 私は、この本の「あとがき」にも書いたように、本を出すのが夢だった。私のような無名の者が本を出すとなると、普通なら自費出版である。ところがこのたびは、出版社が資金を出してくれたのだから、私は只で夢が叶ったことになる。

 それなのに版元は、販売力不足でこういう結果になり、著者には申し訳ない事をしたと恐縮しきり。同じ原稿でも、大手の出版社から出せばもっと売れただろう、ということらしい。大手からそんな話が来る可能性は無かったと思うが。

 私は自分だけ得をしたようで気詰まりだし、版元は著作を広く世に出せなかったことに責任を感じている。双方が「申し訳ない事をした」と感じている構図は、一件奇妙であるが、そこには興味深い背景がある。

 「自分だけ得をしたようで」と書いたが、実はそのような思いは勘違いであり、ある意味で版元に対して失礼である。自分が思うまま、感じるままに、好き勝手に書いて本が出来上がるわけではない。個人の思いをそのまま書いて許されるのは、日記や私信の世界。商業出版となれば、いかに世の中に評価されるかが問われる。自分が書いた文章を素敵だと思い、これなら本にして売れると考えるのは、素人の発想である。

 私が書いた「木工ひとつばなし」にしても、実は版元すなわち編集者の意向が強く反映されている。版元としては、自分が資金を出す以上、売れなければ困るから、商品としての価値が高まるように持っていくのは当然である。では、商品としての価値とは何か。

 原稿を出し始めた当初、少しずつ版元に読んでもらった時期があった。その時に、繰り返し言われた事がある。押しつけることはしない。あくまでも著者の意向を尊重するという姿勢である。しかし、言うことは理にかなっているので、だんだんその方向になって行く。

 「大切なのは読者の共感です」この指摘が、思いの外悩ましいものであった。私は、本を書く以上、人が知らない事を書いてやろう、あっと驚くような内容にしようと意気込んでいた。版元は、そのような私の欲望をやんわりと諭した。そういう気持ちで書くと、高い所から物を言うような感じになる。それでは読者の共感を得られない。共感とは、「ああ、この人もそうだったんだ」という、同じレベルの者どうしが共有する感覚なのだと。

 文体も変えた。元々書きためていた文章は、「である調」で書いていた。それを全て「ですます調」に書き換えた。版元にそうしろと言われたわけではない。高い所から物を言いがちな自分を戒めるつもりで、自らそのような決断をした。「ですます調」の方が書くのは難しい。上手く感情を乗せられないし、文章のリズムも生みにくい。しかし、そのくらい悩まなければ、殻から抜け出せないと思った。

 版元からは、「大竹さんの個性を前面に出して下さい」と、最初に言われた。その方針は当然とも言える。でないと、誰が書いても同じ文章になってしまうだろう。しかし、その割には、原稿を書き進める過程で、版元からの要求は多岐にわたり、ある意味で厳しかった。

 当初の私の希望は、自分の来歴を冒頭に入れることだった。その原稿も、準備してあった。こういう過去があるから、こういう現在がある。こういう経歴によって、こういう作品ができる。そういう因果関係を示す事が、大切だと考えたからだ。欧米の木工家の著書には、多かれ少なかれこういう部分がある。しかしその文章は外された。見ず知らずの者の経歴に関心を持つ読者はいないというのが理由だった。

 細かい表現にもコメントが付いた。原稿の中に「これは植物にしかできない事で、動物にはその能力がありません」という表現があったが、これにチェックが入った。この表現だと、著者は動物が嫌いなのかと思われる、と言うのである。読者の中には犬や猫が好きな人もいるだろうから、好ましくないと。「これは植物にしかできない事です」に留めておいても意図が通じるのなら、あえて反感を買う恐れのある表現は避けた方が良いというアドバイスであった。

 本のサブタイトルに、「元エンジニアが語る・・・」という枕詞を提案したが、これはきっぱりと断られた。理由は、書店の店員は圧倒的に女性が多く、女性はエンジニアなどという言葉に苦手意識を持つから不利であると。店員に嫌われた本は、売れないし、返品されてしまうそうである。

 上に述べたのは、ほんの一部である。実際は様々な角度から指摘が入った。私は初めて、商品としての本を書くことの難しさを知った。

 難しさを感じはしたが、版元が仲立ちとなって、世間との橋渡しをしてくれたことで、大いに勉強になったのも事実である。私はこの本を書くうちに、世の中とのかかわり方が、意識の部分で変わってきたように思う。そのキーワードは「共感」であった。

 版元の方針、そして細かい指摘が的を得ていたという事は、本が出てから認識された。若い学生から、80過ぎの方まで、老若男女に渡り、「すらすら読めて、面白かった」、「ためになった」、「癒された」などの声が聞こえてきたのは、それなりの共感を得られたからに違いない。仮に私が勝手気ままを書いて出版していたならば、私を知る人は面白がったかも知れないが、一般の読者には良い印象を与えなかったのではないかと思う。いや、私を知る人の中にも、その出版の意義を疑う声が出ただろう。

 本が出版されたという事だけで喜んだり、只で出版できて得をした、などというのは、まだまだ本というものの本質、出版というものの意味が分かっていない証拠である。本を出版するというのは、自分一人でできることではない。自分以外の人との係わりの中で展開される真剣勝負なのである。そして、本は世に出れば著者の手を離れて、世間の目に曝される。そこでは、著者と社会との関係が試される。嬉しい評価もあるし、耳に痛い話も聞かされる。そういうことを全てひっくるめて、これは「仕事」なのである。
 
 世の人々の共感を得ることを目的に書いた本である。その目的を達成するためには、これからも機会あるたびに、この本が一人でも多くの人の手に渡るように努力をしなければならない。そして、繰り返し、読者の声に耳を傾ける事になるだろう。私は残りの人生を「木工ひとつばなし」と共に歩んでいく。その旅路は、始まったばかりなのである。



ーー−12/8−ーー 愚かな英会話


 
ふと思い出した、若き日の愚かしい話。

 大学を出て就職し、3年ほど経ったとき、ヨーロッパへ出張することになった。それは初めての海外渡航で、しかも単身だった。

 勤めていた会社は、仕事のほとんどが海外向けで、英語が半ば公用語になっていた。新入社員でも、通訳なしで外人と接することが要求された。しかしその当時は、大学を出ただけでいきなり英語を喋れる者は少なかった。もちろん私もそうであった。

 私の出張は、ウイーンで開催された国際内燃機学会に参加し、その後ヨーロッパのガスタービンのメーカー数社を視察して回るというものだった。おそらく、入社3年目の部下に、国際経験をさせてやろうという、上司の計らいだったと思う。つまり、何ら必要性の無い出張だった。そんなことが許されるくらい、会社の景気は良かったのだろう。

 内燃機学会の方は問題無かった。ただ客席に座って聴いていれば良いのである。辛かったのは、何を言ってるのか分からなくて、退屈で眠かった事くらいか。その代わり、夜の部は楽しかった。主催者が、ナイト・プログラムを用意していたので、毎晩それに参加した。由緒ある石造りの市庁舎で行われたバンケットでは、ダンスに打ち興じる外国人エンジニアたちに圧倒された。あちらでは、学会に夫婦連れで来ているのである。また、ウイーン郊外のワインの産地グリンツィング、三銃士が出てきそうな石だたみの街の居酒屋で、蛇口から注がれるワインを小ぶりのジョッキで飲み干す「ホイリゲ・パーティー」も、思い出に残った。

 問題は、後半のメーカー巡りであった。ほとんど英語が喋れないのに、一人でたずね歩かねばならないのである。

 行く先々の工場で、接遇してくれる相手と話をしなければならない。冷や汗ものである。ときには昼食を取りながらの会話となる。技術系の会話はまだ良い。専門用語の羅列でなんとか通じる。難しいのは世間話の方である。

 ある時、「日本の人口はどれくらいですか?」と聞かれた。相手は、当たり障りのない話題を選んだつもりだったのだと思う。私は「およそ1億人」と答えるつもりで、「About one thousand million.」と答えた。これでは10億である。私はミリオンの単位を間違えていたのだ。それを聞くと、温厚な顔立ちのビジネスマンは怪訝そうな顔をした。そして「そんなはずは無い」と言った。

 彼の疑問は全く正しかったわけだが、自分の間違いに気付いていない私は、「こいつ日本をなめてるな」と思った。それで、「日本は国土は小さいが、想像以上に多くの人が住んでいるのです」とやり返した。しかし相手は「それにしても多過ぎる」と言い、「世界の人口が○○なのだから」などと理屈を述べ出した。私はだんだん自信が無くなってきた。

切羽詰まった私は、最後にこう尋ねた

「Well, now I ask you a question. What is million?」(ところでおたずねしますが、ミリオンって何でしたっけ?)



ーー−12/15−ーー 高速バスにて


 高速バスで東京へ行った。白馬発新宿行のバスに、信濃松川の道の駅から乗った。バスは豊科インターで中央高速に入り、途中2度の休憩を挟み、3時間半ほどで新宿西口のバスターミナルへ到着する。JRで行くより、だいぶ料金が安い。所要時間は、さほど変わらない。道の駅に、翌日まで車を置けるのも助かる。というわけで、近頃は、時刻が都合に合えば、このバスを利用することがある。

 高速に入って二度目の休憩は、双葉のサービスエリア。停車する直前に、運転手が注意をうながした「この時間、松本発新宿行きのバスも停車しています。お乗りになる時、間違えないようにして下さい」そして、「クマのぬいぐるみをフロントガラスの所に置きますから、これを目印にして下さい」と言った。これは行き届いた配慮である。私も、初めて高速バスを利用した時に、サービスエリアで用を足して戻ろうとしたときに、バスを探して迷ったことがある。同じ会社のバスや、似たようなバスが結構停まっているから、分からなくなってしまうのだ。降りるときに、ひと言そのように注意をしてくれれば、こちらも気を配るから、迷って慌てる人は減るだろう。

 およそ10分ほどの休憩タイムが終わりに近づくと、ぞろぞろと乗客が戻ってくる。その中には、バスに乗りかけて、違う車両であることに気付き、去って行く人がいる。乗り込んでくる人の合間を縫うようにして降りて行くのは、座席まで来てから気付いた人だろう。そういう人が結構いた。ひょっとしたら、彼らが乗ったバスでは、そのような注意がされなかったのかも知れない。

 運転手は、車内の乗客の人数を確認すると、「出発時刻の前ですが、全員揃いましたので発車します」と言って、ドアを閉めた。私は少し不安を感じた。本当に正しく全員が乗っているのだろうか? 定刻まで待てば、万一トラブルが有っても、運転手の責任は軽減されるだろうから、残りの数分くらい待っても良かったのではないか。気が利くタイプと見受けられた若い運転手は、運行時間に少しでも余裕を取りたかったのだろうか。

 翌日は午後3時半新宿発で戻った。この時間帯に東京を後にするのも良い。平野部を抜けて山間部にかかる頃には、薄暗くなる。ポツポツと灯がともり始めた谷沿いの街道の景色は、懐かしい気持ちを起こさせる。甲府盆地に入ると夜景が美しかった。

 帰りのバスの運転手は、気が利かなかった。必要最低限のことしか言わない、田舎のおじさんタイプだった。それでもバスの運転には問題無かろうが。

 サービスエリアで一回目の休憩をするときも、「ほかのバスもいますから、ご注意下さい」と、聞き取れないくらい小さな声で言っただけだった。そして、全員が戻って来たことを確認した後も、定刻が来るまで発車しなかった。マニュアル通りにやっているという感じであった。

 最後の休憩のときは、定刻ぎりぎりまで戻ってこない乗客がいた。用が済んだら早く戻れば良いのに、と私は思ってしまう。

 昔、新婚旅行でカナダへ行ったとき、バンクーバーの市内観光バスに乗ったことがある。およそ半日で、市内の観光名所を数カ所回るものだった。名所で停まるたびに、指定された時刻に遅れる老夫婦がいた。始めは5分くらいの遅れだったが、だんだん長くなり、最後には30分くらい遅れるようになった。その間、他の乗客はじっとバスの中で待っている。その老夫婦は、注目をあびるようになった。彼らがバスに乗り込む時、腰を曲げて申し訳ないと謝るのだが、車内から拍手が起きるようになった。私は、この夫婦がわざと遅れるのだと思った。それが彼らの、ある種の楽しみなのだろうと。

 梓川のサービスエリアで、最後に戻ってきたのは、若くて軽い感じの女性二人だった。定刻ちょうどに戻ったのだから、別に悪いことではない。でも、他の客が揃ってからしばらく時間が空いたので、余計に待たされたような気がした。わざとやっている訳では無いだろうが、無神経そうな感じがして、私は軽い不快感を覚えた。ところが、その女性の一人は、乗車口のステップを上がると、運転手に一本の缶コーヒーを差し出した。そして「お疲れ様です」と述べ、奥の座席へ消えて行った。



ーー−12/22−ーー マホガニー?のテーブル


 11月の展示会の折りにお話を頂いたテーブルの改造。甲板の表面が汚れたので、塗装をし直して欲しいとのリクエストだった。お宅に出向いて品物を見ると、甲板がかなり反って歪んでいた。そして脚が壊れかかって、グラグラしていた。甲板を出来る限り綺麗に直し、脚部は作り替えるということで、仕事を承った。

 穂高に戻ってから数日して、宅配便でテーブルが届いた。4本の脚は、幕板の下で切断されていた。こうすれば送料が安くなるという、施主のアイデアであった。

 最初の作業として、残っていた脚部を取り外したのだが、オリジナルの構造は驚くものだった。

 4本脚のテーブルの構造は、脚の上端を連結する形で幕板という部材を四角に回すのが一般的である。そして、幕板と甲板を木ネジで止めるのだが、そこには甲板の伸び縮みを許容するための仕組みが必要となる。私は、コマ止め金具というものを使っている。このテーブルも4本脚に幕板を回した構造であったが、驚いたことに甲板が釘で止められていた。しかも、意図は分からないが、甲板の裏面には幕板がはまるように溝が掘ってあり、脚の先端はさらに深い穴に突っ込んであった(右画像)。これでは、甲板の伸び縮みが許されない。甲板が異常なほど反り返り、幕板と脚の接続部が抜けかかるほど壊れていたのは、この構造上の無理も原因の一つだと思われた。

 施主のお話では、このテーブルが制作されたのはずいぶん前の事だが、元々甲板だけあって、それに大工が脚を付けたとのこと。甲板は、施主の父上が南方から持ち帰った大きな板のうちの一枚だったそうである。上に述べた強引な構造は、家具の構造に不慣れな大工の仕事だったということか。

 さて、この板の材種は何だろうかと考えた。私は南洋材を扱った経験がほとんど無いので、見てすぐに言い当てる事はできない。木材図鑑などを見ながら推測した。ひと削りして現れた肌は、マホガニーに似ていた。リボン杢と呼ばれる木目と、赤みを帯びた茶色が、それらしかった(左画像)。

 マホガニーと言っても、いろいろある。見かけは似ているが、実態は違う「まがい物」があるのだ。高級家具材として珍重された故に、ニセモノも多いということか。この板、南方から持って帰ったということなら、フィリピン産のソロモン・マホガニーかと考えた。別名マトアである。板の割れた部分にチギリを入れる加工をした(右画像)。その際の、緻密で加工しやすい材の感触は、マトアのものでは無かった。私が知るマトアの感触は、重くて、硬くて、荒くて、大雑把なものである。とすると、これは本物の、中南米産のマホガニーか。後日、そのことを施主に話したら、「その線も有りかと思う」と言われた。昔兄上が、そんな事を言ってたような気がすると。

 板は激しく反っていた。それが、巾方向だけなら、縦に裂いて平らにし、矧ぎ直すという手もある。しかし長さ方向にも反っており、その深さは最大10ミリあった。これを平らになるまで削ったら、厚さ30ミリの板が、18ミリくらいになると思われた。それでは見た目に寂しい感じとなってしまう。

 結局、新しく作る脚部に甲板を張り付け、なるべく平らにした状態で削って済ますことにした。反りを戻そうとすると、かなりの力が掛るので、脚部の部材、幕板は通常の2割増しの厚みにした。また、甲板を脚部に取り付けるコマ止め金具は、いつもの3倍の数にした。さらに、甲板の裏側にスリットを何本も切り込み、反張力を軽減するようにした。それらの対策により、脚部に取り付けられた甲板は、元々の状態からは見違えるほど平らになった。

 削りは、ベルト・サンダーで行なった。この電動工具は凄い切削力があるので、テーブル・トップの塗装剥がしには絶大な効果を発揮する。実は私はこの道具を持っていない。必要があるときは、知り合いの工務店から借用する。この作業は、できれば屋外でやりたいものだ。工房の中でやると、部屋の隅々まで削られた粉塵が飛散して、全ての物の上にうっすらと、この材の粉をまぶしたようになる。

 仕上がりは画像の通り。脚部の材は、マカバの白太が多いところ。作りたての状態では白さが目立つが、じきに落ち着いた飴色に変わる。施主は出来上がった現物を見て、「これほど綺麗になるとは思わなかった」と言い、奥様は「こんなに美しい木目の板だったんですね」と驚かれた様子だった。












ーー−12/29−ーー 一年の終わりに


 世の中を見渡せば、いろいろな事件や悲しい出来事があった一年だが、我が家としては、良いことが重なった、嬉しい年であったと思う。

 まず、次女が大学に合格した。そして、息子が大学院に進んだ。3月には長年の夢だった著書を出すことができた。10月には長女の結婚話が持ち上がり、11月の展示会では稀に見る好成績を挙げた。

 趣味の登山では、思い出深い金峰山に家内を連れて行くことができた。また、8月末には、久しぶりに穂高岳を登り、涸沢のテント生活を楽しんだ。その一方、恒例の有明山登拝が雨のため中止になり、7月下旬に予定していた北アルプス横断縦走も天候不順で中止になった。また、12月の納会山行も、真冬並みの寒波のためにキャンセルした。天気の予想も、もはや例年並みでは考えられないのかも知れない。

 自分の体の具合は、夏山に向けて日常的にトレーニングをしてきたので、同年代の平均と比べれば、体力に余裕があり、健康だったと思う。ただ、かなり真剣に走り込んでも、腹回りの出っ張りは解消されなかったが。

 家庭状況としては、最後の子供が巣立って行ったので、夫婦二人になってしまった。よく人から「寂しいでしょう?」と聞かれるが、そんなことも無い。むしろ子供に生活時間を割かれることが無くなったので、自分の時間を充実して使えるようになった。仕事で活躍できるのは、これからだという気もする。

 このような雑文に載せるのも憚られるが、深刻な悲しみもあった。秋に、会社時代の友人F氏が病気で亡くなった。若いころ一緒にバカをやった仲だが、その後会社の要職に昇りつめ、多くの部下に慕われる存在だったそうである。それが、発病して一年を待たずに他界した。病床を見舞ったら、すでにかなり悪い状態であったが、私の仕事を気に掛けてくれていた。私の椅子を買いたいと言い、傍らの奥様にはっきりとした声で「頼んだぞ」と告げた。それが彼と会った最後になった。

 喜びもあり、悲しみもあった。こうして一年が終わる。来年はどのような年になるのか。良い事もあるだろうが、不意に訪れる災いもあるだろう。期待と不安が交錯し、思いはグルグル巡って、自分の事ながら何とも言い難い。






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